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2015/03/20
懐かしくはない
みくりんの寝ている間を狙って、引越しの箱詰めを始める。
詰めてるはずなのに部屋が、がっしゃーとしている。不毛な感じだ。
最近のこまっちゃんは帰宅が遅く、朝は早いので夫婦すれ違い。昨日は帰宅した時に起きて、久しぶりに話をする。深夜のおやつ。一緒に『未来の食卓』の予告編などを見る。
「おれって…集団の中にいるとどうしても目立っちゃうんだよね」
「何の集団?」
「何でも」
そんな時あったっけ?
こまっちゃんと話すのはとっても楽しい。
必要があって、引っ越す旨を人に話すと、「瀬戸内海、いいところですね」と、皆が言って下さる。「海も穏やかだし。食べ物も美味しいし」。
わたしは行ったことが無いので、「そうですか。そうかあ。楽しみだなあ」と言う。
でも本当にいいところだけだったら、なぜ人口が減る一方なのか?矛盾。
夕刻のぼちぼち帰宅ラッシュの始まる中央線にベビーカーを乗せて、満員のバスを見送って、人が沢山いるのに人を拒絶する感じ、慣れなかったな、中学生からずっと中央線使ってるのに。
この感じともお別れなのかな?
分からないな、東京以外に住んだ事が無いから。
ライブが終わって(参照:マッコリ)、「次回、6月はどうですか?」という打診を受ける。6月に帰ってくるのか?わたしは…?
いろいろな物、人、に別れを告げても、4月で6月だったら、それほど懐かしくはない…むしろ年に1回、2回会うような友人だったら、「また会ったね」だ。
みくりんもいるし、交通費も大変だし、勿論頻繁に東京には来れないんだけども、でも『母屋と離れ』は言い過ぎか、『本校と姉妹校』はちょっと違うか、『海の家、冬期休業』…はどうかな。ホームタウンが東京であるのは変わりようがないので、でもホームは大三島に移るんだけど、だけど縁が切れるのではなくて、残るものは強く、これからも発展して…。
シンプルに、デラックスに、わたし自身の行動範囲が広がる、そういうイメージなのだ。日本全国、どこへでも行けるのだ、そしてこれはわたしの一方的な思い込みだけど、友人達にとっても、親しみのある場所がちょっと増えた、というような軽い感じ。
決別ではなく。
そういう風に感じるのは自分でもちょっと意外なのだが、多分、きっとそれだけ、わたしとこまっちゃんが出会って、月日とともに練られていった色んなものとの関係が、今ここに来て、この段階で、本質的なものに近くなったんだろう。
引越しを期に、捨てる物もあれば買う物もある。
そして捨てる必要のないもの。これまで持っていて、行った先でより役立つものもあれば、これまで通り、場所に関わらず同じように役に立つものもあるだろう。
明日はぬかるんでても野良作業が出来そうな靴を買うつもり。
なんだか遠足の準備みたいで楽しいのだ。