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2020/03/09

目まぐるしい春


2月末。こまっちゃんの学生時代の友人が泊まりに来てくれて、一緒に今年最初のウグイスの鳴き声を聞き、一緒に観光をし、確定申告の準備をし、1ヶ月提出期限が延び、コロナウイルスで学校が休校になることに驚愕。いつ自分がコロナウイルスにかかって、いつ死んでしまうかもしれないと思ったら、楽しむことを躊躇わずに生きようと思って、自分に禁止していた韓流ドラマを解禁することにした。ともちゃんは何かに夢中になると思考がそれでいっぱいになってしまうので、世に面白いと聞く韓流ドラマを見てしまったら、抜け出せないんじゃないか、日常生活に影響するんじゃないか、と思って恐ろしくて今まで見られなかったのだ。そうしたらば厚生労働省のサイトに専門家会議の見解というのが載っていて、それによると8割の人が軽症で、ただの風邪みたいなもので治るのだという。そうなのか…死んでしまう心配は無さそうだ…。ところで、最近知人に頼まれて、バックアップ用のHDから古いデータを漁っていたら、2014年のともちゃんがいいテキストを書いてたのを見つけた。

 あらゆる幸せの中で、大好きな人と美味しいものを食べる時間は最上位に入る。わたしはそのことを彼といて学んだ。彼の幸せの原風景は幼少期から大人になるに至るまで家族とのご飯にあって、その時間が何より楽しみで幸福だったことが、彼の色々を育てている。一緒に暮らし始めて、彼が大切にする時間を共に過ごすことで、わたしの中にも何かが少しずつ育まれているみたいだった。食に関してドライだったはずのわたしにとって、積み重ねた時間が増えれば増えるほど、自分で自覚している以上に食べる時間が意味あるものになってきているらしい。
 米を研ぐ。ザルとボウルを用意する。計量カップは、居間のテーブルを作ってくれた職人さんが作った胡桃材のもので、ノミの跡が美しく、蜜蝋で仕上げてある。長く愛せるものが見つかれば、出来るだけプラスチック製のものは使わない。米を炊くのは羽釜の形の土鍋だ。使い始めた頃は炊飯器と味がそんなに変わらないと思ったが、水を天然水に変えたら驚く程美味しくなった。彼が研ぐ時は、研ぎ水も天然水を使う。 彼は道具や調味料にこだわった。ブランド品や高級品という訳ではなく、良心的な作り手の、長く使えるものをじっくり探して買う。家にある調理道具はあらかた彼が買ったものだ。わたしはそんな彼に影響されて、自分のお金で秋田杉のおひつを買った。いいお米程、翌朝のご飯が別の料理みたいな新たな美味しさになった。
 いい調味料でいい野菜を使えば、シンプルな野菜もごちそうになる。「作り手の魂がこもっている」ということが、彼が物を選ぶ基準だった。魂とは、愛と言ってもいいかもしれない。魂の込められたものは、食べるたび、使うたび、少しずつ愛を自分に渡してくれる。わたしは、物は物だと思っていた。でも彼と付き合うようになって、初めて、そうじゃないかもしれない、物にはそれぞれの経歴によって纏っているエネルギーがあるのかもしれない、と思った時、いつでも何をしても片付かない自分の物が積まれているのを見て、その雑で荒んだ気配は自分が物達に与えていた態度とそっくりそのまま同じものであるかもしれない、それがこの世の見えない真の姿かもしれない、と、これまで思ったことのないことを思った。
 彼は作り手が込めた魂を感じることの出来る感受性を持っている。わたしは彼の、込められた思いの質を計る感受性を信頼し、彼が感動する時はその彼の在りようにわたしも感動した。

なんだか、こまっちゃんと一緒に暮らし始めていい影響を受けている感じが初々しいですね。今はご飯を炊く時、子供の都合に合わせると炊飯器の方が便利が良くもあり、殆ど土鍋もおひつも使っていません。でも自分がいつ死ぬか分からないと思うと、ここに戻るような気がします。つまり、大切に思うものを使って、美味しくご飯を食べて、1日1日を過ごす、ということです。最後の日まで。